あの、袁。そう声を掛ければ、受話器を置く為に落とされていた視線がこちらに向けられる。少し首を傾げて、続きを促されているとわかる。
当たり前のように反応が返ってきたが、袁は誰に対してもそうするわけではない。目の前に居る人間をまるで空気のように扱うし、無視だって平然とする。しかし自分にそういった態度を取ることは、ほぼ無かった。ほぼ、というのは、頗る機嫌が悪い時を除いてという意味だ。今はそう機嫌を損ねていないようで、視線もまだ此方に留まっている。
「……甘すぎないすか。その処分」
「そう思うかい?」
今しがた一方的に電話を切られた件について尋ねれば、袁は聞いて欲しいと言わんばかりに言葉を連ねる。楊が、楊に、と語る声は低く落ち着いていて、けれど何処か弾んでいる。
楊と呼ばれる男が袁のお気に入りで、袁が自分をその代替のように扱っている節があると気付いたのは、いつの頃だったか。『自分に求められている正解』を直視するのは気が引けて、本人に話し掛けたことこそないが、姿は何度も見掛けた。
或る昼下がり、視界の端を鮮やかな赤が横切っていく。未だ鮮明な光景だ。
あ、と思った次の瞬間には隣に居た袁が取引相手との会話を中途半端なところで切り上げて、裾の長い服を翻す。少し遅れて靡いた木蘭色の布がその装飾を揺らすのを視界に捉えながら、成程あれが、と確信を抱く。
容姿は知っていた。今日此処に来ることも。けれどこうも分かり易く、先程まで愛想を振りまいていた相手に何の躊躇も無く背中を向けた袁の姿と共に突き付けられると、本当に存在したのかという驚きがある。
溜め息を吐き、どうせすぐに戻ってくるであろう上司から投げ出された人間と目を合わせ、声を掛ける。言われずとも理解している。此処に自分がいるから、袁はそうした。相手をしていろ、そういう指示だ。ああ、今日は鬱陶しい程天気がいいっすね。
当たり障りの無い会話を並べ立てながら、思ったよりも戻ってくる気配の無い袁の方を確認する。あからさまに嫌な顔をしながらも立ち止まり、己よりも少し背の高いその人を見上げながら応対している赤髪の男の姿が見えた。袁曰く「楊には嫌われている」らしいが、方々から聞く化け物染みた噂よりは随分と素直に、律儀に映った。
そういうところは、今目の前で自分の質問に対し、柔らかに笑いながら受け答えをする袁に似ているのかも知れない。
現実に意識を戻せば、袁は万年筆にインクを補充しているところだった。どうやら、電話を切られたことにより楊に認める必要となった書簡は自筆で書くらしい。自分に任せれば、少なくとも筆跡を見て破り捨てられる可能性は回避出来るのでは、と思わなくもないが『愉しそう』にしているので口を挟むのは止めた。最終的に破られるにしても、楊は必ず目を通すと知っているからそうしているのだろう。
上の空なまま袁と交わしていた中身の無い会話が止むと、やがてペン先が紙と机とを引っ掻く音が室内に満ちる。邪魔はするまいと、何とは無しに大きな窓の前に立ち、差し込む光の向こうを眺めた。
薄暗いホテルの一室から見下ろすローマの街並みは、此処で生活している人間がいることを知らしめてくる。英国とは違う。勿論中華民国とも。道行くカップルも、店先で客と話し込んでいる店主も、慌ただしく何処かへ駆けていく市警も、自分とは違う道を歩いている。仮に今、袁に散歩を宣言してこの場を抜け出し通りを歩いてみたとして。あの交差点は、自分とは交わらない気がした。
……失敗した。特に内容の無いホテルの案内冊子や、ルームサービスメニューでも眺めているべきだった。胃から競り上がってくる憎悪を感じつつそう思う。失敗なのかも知れない。恐らくこんな風に、こんなところで、この世界一殺したい人間の傍に居る以外の人生もあった。
「おまえは良い子だね」
巡らせていた憂鬱の続きのように呟かれた言葉に思わず振り返る。相変わらず万年筆を滑らせている袁と目は合わない。
物足りない、そう言外に言われた気がした。まだなのか、そう急かされている気さえする。こうして隣に置いているのも、『その時』を待っているに過ぎず、これまで意地だけで積み上げてきた能力その他一切考慮などしていないと切り捨てられるような指摘の鋭利さに、いよいよ息が詰まる。
「……いや、書くんすよね?それ。話しかけたら邪魔じゃないっすか」
「そうではないよ。宿など取らなくてよかったのに、と思ってね」
手間だったろう。労うような声色で発されたそれを理解した瞬間に握り締めそうになった拳を、なんとか解く。袁は今、他人の屋敷を奪う方が簡単だと言ったのだ。1から10まで見透かされている。そう錯覚し得る閉塞感の中で、これまで一度も選ばなかった、けれど常に並べていた選択肢がちらつく。
でも今じゃない。耐え忍んできた月日を思い起こせば、今更逃げて楽になれるほど自分を甘やかす生き方は出来なかった。あの決定的に変わってしまった日から、環境がそれを許さなかった。だから、これは心乱されるようなことじゃない。ただ、今日も選ばないだけだ。
感情の起伏を均すよう息を吐き、袁が腰掛ける椅子の隣席に座る。ふと筆記から離れた視線が向かってくるのを感じながら、頬杖をつき科白を選ぶ。袁を見れば、永劫熟れることのない半透明な柘榴色の瞳が其処にある。
「御宅はそういうとこ無頓着ですけど……。自分、人ん家苦手なんすよね。繊細なんで」
きょとんとした袁は、数拍置いてひとり納得した様子を見せると、眉をひそめて笑った。
「ははは、そう育ちがよくなくてね。ああ、幼い頃の睿に不便を掛けていなかったといいが」
「いやー……。昔の方が繊細でしたね。育ちがよかったもんで」
笑い声を返してくる袁が再び右手を動かし始めたことで、己の返答が及第点だったと知る。適度に反抗して、しかし一定のラインを越えてはいけない。面倒くさい、と椅子に凭れれば、袁はまだ笑いの残る声で続ける。
「書き終わったら少し出掛けようか」
「え、何処か行くんすか?確かこの後、天気が崩れるって」
「睿は何処がいいのかな」
「え?」
「此処から出たい、という顔をしていた」
それは、雨でも構わないのかな。そう質問を重ねられ、まだ浴びてもいない6月の雨を想像させられる。乾季の暑い日中に降るそれは、単語の持つ陰湿なイメージに反し、そう悪いものではないような気がした。
先程までのように、直ぐに「行かない」と言えばそれまでだ。袁も、興味無さげに「そうか」と言うだろう。それでお終いだ。是が非でも連れ出したい、という強制力はこの場に於いては無かった。だけど、もし頷いたら何かが変わるのか。
降り出した雨の中に自分を置いて、この男を置いて。何処に行きたいのかと再び問われて。御宅の居ないところなら何処でもいい、などと正直に吐いたところで。嬉しそうに笑われるのが関の山だ。
それでは結局、何処に居てもこの男の息の根を止めるまでは同じではないかと。そんなことをずっと、万年筆の音が止むまで考えていた。
20240827 表象