朝、と言うには陽が高い。
普段通りノックをせずにドアを開くと、予想通り寝坊していた楊がうつ伏せに体勢を変える。如何にも重そうに身を起こす風景は見慣れたものだが、なんとなく久し振りな気もした。
「リリィ」
瞼を閉じたまま緩慢な動作で前髪を覆っていた楊の手が止まる。月光色の瞳が己の発した言葉により見開かれたのを、ランとフェイは寝台の装飾越しに見た。誰も動けずにいる中で、刺青が入った肩から擦り抜けた赤い髪が寝台へと落ちる。
気付いてしまったのか、とフェイは嘆息する。当然、此処にいるのがボクたちだということにも思い至っただろう。
ああ、そうか。近頃は部屋に鍵が掛かっている朝が多かったから、こうして寝起きの楊を見る頻度が減っていたのだ。元々この部屋の鍵は飾りのようなもので、寝起きも裸体も事も無げに晒す彼にプライベートなどあってないようなものだった。
しかし、いつからだったか。拠点に戻るなり部屋に向かい、ドアを開けながら彼女の名前を呼ぶ様を見るようになった。そうしてドアを閉めると同時に鍵が掛かる音を聞いたのも、一度や二度ではない。
数日前まで、此処には確かに彼女がいた。でも、もう居ない。楊が言ったのだ。袁にくれてやった、と。
横目でランを伺えば、想像通り顔を歪めている。きっと即座に茶化した方がマシだっただろう。失言に動じてこちらの反応を見逃すような楊ではないからだ。
「あの子ならいないヨ」
遅いと知りながら、取り繕うように明るい声で言えばランから抗議の眼差しが飛んでくる。小さく首を振って、そんなことはわかっていると伝える。ボクだって、ランと同じだ。この状況も、この光景も悲しい。あの子の名前を口にしたら、ボクもランも、そして楊も言葉が続かない気がして呼ぶことすら出来なかった。
だって「要らない」と切り捨てるには、今この時でさえ楊の彼女を呼ぶ声は柔らかすぎた。対外的に少し演技がかった物言いをする時とも、部下に言葉を投げる時とも違う。ただ飼い主が何となしに自分のペットを呼び寄せるような、そんな暖かさが含有していた。
よかった、と安堵に似たものを感じながら眺めていた日々が、一瞬にして無かったことになった。だけど、無かったことには出来ていない。楊の、人の名前を呼んでから話し始める癖をボクは好ましく思うけれど、こんなに居た堪れなくなる日がくるとは思ってもみなかった。
落ちていた沈黙を破るように「何の用だ」と掠れた楊の声が漏れる。これ以上この話題を続ける気は無いと釘を刺される。
「ねえ、楊。リリィを迎えに行っても良い?」
「……駄目だ」
ランが耐えきれずに揺り戻し尋ねた言葉で、その名で、想像していた通りの鈍い痛みが鎖骨下を捉える。
何度迎えに行こうと提案をしたかなんて覚えていない。昨夜だって、何もないところでふと立ち止まり、斜め後ろに視線を遣り口を開きかけた楊にランが何かを言った気がする。でも楊は首を縦に振らない。いつもの様に「好きにしろ」とも言わなかった。感情の乗らない低い声で、只管に駄目だと繰り返す。今日も明日も明後日も、その先永劫答えは変わらないのだと理解するには充分だった。
やけに静かだ、とランの方を見れば、寝台とは反対方向に歩いていくところだった。棚の上で大人しく座っていた熊猫のぬいぐるみの腕を掴むと、今度は楊に大股で歩み寄って行く。よくないことをしようとしている、と瞬時に察して止めようと伸ばした手はしかし少し遅く、ランの腕を掴めない。
「楊はベッド半分しか使わないみたいだから、熊猫に添い寝して貰って不貞寝してたらいいヨ!」
「…………」
投げつけられた熊猫は楊の腕に当たり、そのまま隣に転がる。
身体を起こして彼女の名前を呼ぶ少し前、楊の掌は普段彼女が寝ていたのであろう場所をなぞっていた。そこにいるべき人がいなかったが為に、何故抜け出したのか、という不満からその名前を呼んだのだ。指摘しなかったのに、と頭を抱える。だってそれこそ「どうして」なのかと詰め寄りたくなってしまう。そんな風に、自分一人を残して起床することすら咎めたくなるほど、
「フェイ。用がないのならこいつを連れて部屋から出ていけ。騒がしくて敵わん」
「……分かったヨ」
「それとこれも処分しておけ」
楊が寝台から立ち上がると、首根っこを掴まれた熊猫が投げて寄越される。
キャッチすると、ふわりとリリィの匂いがした。楊と同じようで、少し違う。白檀と、それから別の何かの甘さと、ジャスミンが混ざり合ったような。
なるほど、確かにこれは近くに置いてはおけない。彼女が気に入ったからと、楊が本国から取り寄せたぬいぐるみ。楊がいない時によく彼女が抱き締めていたから、これは至極当然のことだ。ランは知っていたのかもしれない。
名残惜しさから腕に抱え直し、抱き締めるようにその布地に顔を近付けると、上着を手に取っていた楊の眉間に僅か皺が寄る。
「……じゃあボクが貰うヨ」
言うが早いか、手元に大きな衝撃を受ける。弾かれたように顔を上げると、楊が手にした双鉤を真横に薙ぎ払ったところだった。
「聞こえなかったか?俺は処分しろ、と言ったが」
表面を切り裂かれた熊猫の、抉られた中綿が視界の端で舞う。辛うじて繋がっているだけの頭部が、ぐったりと項垂れた。
「……そんな風に怒るなら、楊が処分してあげればよかったのにネ」
「そうか。フェイ、そこまで言うならおまえからにしてやろう」
見るからに不機嫌な楊から目を逸らし、引きちぎられ足元に落ちた熊猫の中身だったものを見る。薄暗い拠点には不釣り合いなほど、それは真っ白くやわらかに降り積もっていた。冷えていくものを感じるのと同時に、こんな風に激昂する楊に懐かしさを覚えた。
「……行こう、ラン」
ランを促し、手を取る。反対の手で熊猫の中身だったものを拾い上げ、布と布の切れ間に押し込んだ。ああ、こんな風に壊されていいものじゃなかった。だけど、どうしたって耐えられないのなら、そうすればよかったのに。
白い綿が、その惨状に反してふわりふわりと皮膚を甘やかしてくる。一度溢れたものはそう簡単には元に戻らず、唇を噛み締めた。
ずっと楊の傍にいたボクらなら、あの子に接する時の楊が「有り得ない」とわかる。だけどあの子にはそうじゃなかったかもしれない。一般的に見れば、愛だとか恋だとかいうものからは掛け離れていただろうから。それでも楊は、あんな風に誰かを目で追っては見詰める人じゃなかった。
そっと息を吐く。こうして毎日、或いは忘れた頃に、手遅れになるまで、或いは手遅れになった後でさえ続いていくこの光景が日常となる気配を感じながら、ドアを閉めた。
20231203 揺曳